この種はいったい、だれのもの?固定種、F1種、そして“選ぶ自由”について

“健康にいい食事”について調べていたときのことだった。
野菜をたくさん食べるとよい──そんな当たり前の情報の中に、「F1種の野菜は…」という、見慣れない言葉が出てきた。

F1? 品種改良?
気になって調べてみると、「育てた実の種を、またまくことができない」という事実にたどり着いた。

毎日当たり前に食べている野菜のはじまりに、こんな仕組みがあるとは知らなかった。

F1種固定種ゲノム編集、そして、種にある権利
食べるという行為のすぐそばに、これほど多くの技術や制度、そして問いがあったことに驚かされた。

わたしたちは日々、何を選び、何を選べていないのだろうか──。
そんな疑問が、静かに心の中に芽を出しはじめていた。

目次

固定種って、なんだろう?──受け継がれる種のこと

F1種」と並んでよく目にする言葉に、「固定種」というものがある。
昔ながらの種という印象を受けるかもしれないが、実際には何世代にもわたって同じ性質を保ち、安定して育つ種のことを指す。

たとえば、ある固定種のトマトを育てて実を収穫し、その実から採れた種をまけば、また同じようなトマトが育つ。
そうやって代々つながってきたのが固定種である。

この固定種の中でも、特定の土地に根ざし、地域に根付いた暮らしの中で受け継がれてきたものは「在来種」と呼ばれる。
気候や風土、土地の文化に合わせて少しずつ形や味を変化させながら生きてきた、“地域と共に育ってきた種”ともいえる存在である。

この「固定種」という言葉に初めてふれたとき、
種とは“つながっていくもの”なのだと気づかされた。

一粒の種から、何世代も未来が続いていく。
当たり前のようで、どこか遠ざかってしまった感覚に、心が少しだけ動いた。

実際、近年の植物研究では、母株が育った環境条件が、種子にエピジェネティック記憶として残り
子どもの代にまで影響を与えることが明らかになってきている。
乾燥した土地で育った親から採れた種が、乾燥に強くなる。気温や光の強さなどの環境要因が、
遺伝子配列を変えることなく記憶され、次の世代の形質に反映されるという。

この事実は、種が単なる情報の容れ物ではなく、
その土地や暮らし、環境との対話の記録であるという見方を裏づけてくれる。

F1種という“便利さ”の裏側にあるもの

F1種(エフワンしゅ)という言葉を初めて耳にしたとき、それが今の野菜の多くに使われていると知って、少し驚いた。

F1種とは、性質の異なる2つの親品種を掛け合わせてつくられた雑種第一代のことである。
この種から育った野菜は、見た目や大きさがそろいやすく、病気にも強く、収穫量も安定しやすいとされている。

一方で、F1種から採れた実の種──つまり「次の世代」の種をまいても、親と同じような野菜が育つとは限らない。形や味がばらついたり、そもそも育たなかったりすることもある。

そのため、多くの農家や家庭菜園をする人々は、毎年同じ種を買い直して育てることが前提となっている。

「育てた実の種を、またまける」という、ごく自然なサイクルが、
あらかじめ断たれている
ことに気づいたとき、
それが「技術の進歩」とだけは思えず、どこかひっかかりを感じた。

もちろん、F1種には多くの利点がある。
効率よく安定した収穫を実現し、気候の変化や病気に強いものを育てるために、必要な技術でもある。
それによって、いつでもきれいな野菜が手に入るようになったのも事実である。

ただ、便利さのなかにある「選べなさ」に、少しだけ立ち止まりたくなった。

ゲノム編集という時代──技術の“速さ”に問いを残す

ゲノム編集は、近年登場した新たな品種改良技術のひとつである。
DNAの特定部位を切断・修復することで性質を変えるこの手法は、外部の遺伝子を導入する遺伝子組換え技術とは異なり、もともとの遺伝子を改変するという点に特徴がある。

突き詰めれば、ゲノム編集とは、自然の中で何世代にもわたって積み重ねられてきた品種改良の過程を、
分子レベルで意図的に引き起こすことによって、劇的に時間を短縮できる技術でもある。

その進歩はたしかに目を見張るものがあるけれど、だからこそ、その「早さ」が、何を置き去りにしてしまうのかも、どこかで問いかけてみたくなる。

実際、日本ではゲノム編集で作られた食品に表示義務はない
つまり、すでに市場に出回っている高GABAトマトや長持ちナスなどの品種を、私たちは「知らずに」手に取っている可能性がある。

選んでいるようで、選べていない。そのことに、少しだけひっかかりを感じた。

種に“権利”があるということ──育てることに制限がある世界で

固定種やF1種、そしてゲノム編集といった品種の違いを知るにつれ、
もうひとつ気になってきたのが、「種の権利」という考え方である。

野菜の種子は、ただ自然に存在するものではなく、多くのものが「開発された品種」として登録されている。
農林水産省が所管する種苗法では、新たに育成された品種を「登録品種」として認め、
その品種を開発した育成者に一定期間の権利(知的財産権)を付与している。

この制度のもとでは、登録された種子や苗を使用する際、育成者に無断で増やしたり販売したりすることは原則として禁じられている。農家であっても「自家増殖」──つまり、育てた作物から採種し、それを翌年再びまくという行為は許されない場合がある。

農業が生命の循環であるとすれば、そのはじまりである種子が制度や経済によって所有され、制限されるという現実は、技術や権利の問題だけでは片づけられない複雑さをはらんでいる。

種は誰のものか?」その問いは、どこか静かに、しかし深く心に残る。

問いをまく──わたしにできる、小さな選択

F1種が当たり前
ゲノム編集は表示されない
種を受け継ぐことに制限がある

そんな現実を前にしたとき、わたしたちは何ができるだろうか。
何かを「やめる」というよりも、まずは「知る」ことから始めるのがよいのかもしれない。

そして、種の袋に記されていた「消毒済み」の文字にも、私はふと立ち止まった。
育てる前から、薬剤や熱で“処理”された命。それは病気を防ぐための当然の工程かもしれないけれど、
自然の力で受け継がれてきた命に、あらかじめ手が加えられていることに、どこか戸惑いを覚えた。

農薬や化学肥料だけでなく、種の段階からすでに「自然から距離を置いた選択」がはじまっている。
そう気づいたとき、改めて問いかけたくなった。

選ぶ自由は、知らなければ持てない。
問いを持たなければ、選ぶことさえ意識できない。

その小さな問いこそが、未来の自由につながる最初の一歩なのかもしれない。

おわりに:小さなプランターから、未来の自由へ

種のことを考えはじめてから、いろんなことに気づくようになった。
固定種、F1種、ゲノム編集、種苗法、そして消毒という慣習──
どれも、これまでの生活ではあまり意識してこなかった言葉ばかりだった。

けれど、そのどれもが、毎日の食卓につながっていた。

ベランダのプランターにまいた種が芽を出したとき、
この種はどこから来て、どこへつながっていくのだろう”という問いが、自然と湧きあがってきた。

問いをまくことは、未来を選びとる自由のはじまりである。
小さな気づきが、誰かの中で静かに芽吹くように。

参考資料

執筆者

あめゆり編集部

あめゆりは、食と暮らしを通じて、私たちと地域、そして自然との豊かなつながりを知るきっかけをお届けするメディアです。「これって、本当に体にいいのかな?」「環境にやさしいって、どういうこと?」そうした素朴な問いを、その「気づきの芽」をそっと育てるような企画を、少しずつ広げていきます。

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